~DanceとSakeを愛する者のメモ~
Dance studio R
人の声だけで「コーヒーを淹れる音」を再現したCMが話題に
デジタルに歓喜しつつも、アナログの良さを改めて感じる今日この頃です
ピチャピチャ感がより誇張されていて面白い
デジタルに歓喜しつつも、アナログの良さを改めて感じる今日この頃です
ピチャピチャ感がより誇張されていて面白い
「UNIQLOCK」の振付で一躍有名となった振付稼業air:manによる動画
振付稼業air:manhttp://www.furitsukekagyou-airman.com
プロモーション映像ですが、とても良くできている。。
無駄にダンサーを中心に構成しているところも吉と出ている模様。
立ち姿だけでも、ダンサーであることがうかがえる。見習いたいところだ。。
ダンスのジャンルは、クラシックバレエ、ヒップホップ、ジャズダンス、ストリートダンスと多岐に渡るそうですが、スマートでキレが良い。
ミニマルの王道。
現在、名刺も様々な色・形・素材に変化しましたが、まっ白い空間に白い名刺の真髄を見た気がします。
恐ろしかな、一連のアクションはすべてワンテイクで収録とのことです。
[100万人が使う名刺アプリ『Eight』は、名刺の受け渡しという日常的な行為に革新をもたらすことで、ビジネス全体にポジティブな変化を生み出そうとしています。
このムービーでは、名刺交換という基本動作だけを描いて、どれだけ創造的な映像を生み出せるか、ということに挑戦しました。]
振付稼業air:manhttp://www.furitsukekagyou-airman.com
プロモーション映像ですが、とても良くできている。。
無駄にダンサーを中心に構成しているところも吉と出ている模様。
立ち姿だけでも、ダンサーであることがうかがえる。見習いたいところだ。。
ダンスのジャンルは、クラシックバレエ、ヒップホップ、ジャズダンス、ストリートダンスと多岐に渡るそうですが、スマートでキレが良い。
ミニマルの王道。
現在、名刺も様々な色・形・素材に変化しましたが、まっ白い空間に白い名刺の真髄を見た気がします。
恐ろしかな、一連のアクションはすべてワンテイクで収録とのことです。
[100万人が使う名刺アプリ『Eight』は、名刺の受け渡しという日常的な行為に革新をもたらすことで、ビジネス全体にポジティブな変化を生み出そうとしています。
このムービーでは、名刺交換という基本動作だけを描いて、どれだけ創造的な映像を生み出せるか、ということに挑戦しました。]
立体音響はとても興味のある分野である。
立体音響とは3次元的な音の広がりを生み出す技術、方式のことである。
簡単にソフトさえあれば、スピーカーのない方向から音が聞こえてくるようにもできる。
遠くから聞こえるようにしたり、背後から聞こえるようにしたり。
ただし、あまりいじりすぎると具合が悪くなることもある・・・
先日、世界の冨田氏が他界した、とても残念なことです。
彼ほど、立体音響へ探究心を抱き続けた方はいらっしゃらないのでは??
以下、過去のインタビュー記事
立体音響への探究心
「立体音響への興味のきっかけ? 子どものころ北京に住んでいて、天壇公園という、円形の壁に囲まれた公園によく父と一緒に行っていた。音が反射する有名な場所でね。それがすごく面白くて。空で鳥が鳴くと、その反響音で自分が宙に浮いたような気分になった。あの体験が、音響に対する興味の元になっていると思う。つまり、ぼくの場合は音楽よりもまず先に音響だったんです。結局、シンセサイザーもそこからずっとつながっているんでしょうね」
冨田勲|ISAO TOMITA
1932年東京生まれ。作曲家/シンセサイザー・アーティスト。慶応義塾大学在学中から作曲家としての活動を開始。74年のアルバム『月の光』がビルボード誌の第1位を獲得し、同作品で日本人として初めてグラミー4部門にノミネートされる。NHK大河ドラマや、手塚治虫のアニメ「ジャングル大帝」「リボンの騎士」、山田洋次監督作品など、数多くのTV・映画音楽を手掛ける。2012年、宮沢賢治の作品を題材にした「イーハトーヴ交響曲」を発表。ソリストに初音ミクを起用し話題を集めた。2011年より“ISAO TOMITA PROJECT”を始動させ、過去作品のリメイク&サラウンド化による完全版を継続的に発表。2016年3月に、同プロジェクト・シリーズとして『オホーツク幻想』をリリースした。
同居人からオススメの新着が来た!
ゲーム音楽のクリエイターさんらしい
キュートで深みのある音です
http://music.disasterpeace.com/album/monsters-ate-my-birthday-cake-ost
立体音響とは3次元的な音の広がりを生み出す技術、方式のことである。
簡単にソフトさえあれば、スピーカーのない方向から音が聞こえてくるようにもできる。
遠くから聞こえるようにしたり、背後から聞こえるようにしたり。
ただし、あまりいじりすぎると具合が悪くなることもある・・・
先日、世界の冨田氏が他界した、とても残念なことです。
彼ほど、立体音響へ探究心を抱き続けた方はいらっしゃらないのでは??
以下、過去のインタビュー記事
立体音響への探究心
「立体音響への興味のきっかけ? 子どものころ北京に住んでいて、天壇公園という、円形の壁に囲まれた公園によく父と一緒に行っていた。音が反射する有名な場所でね。それがすごく面白くて。空で鳥が鳴くと、その反響音で自分が宙に浮いたような気分になった。あの体験が、音響に対する興味の元になっていると思う。つまり、ぼくの場合は音楽よりもまず先に音響だったんです。結局、シンセサイザーもそこからずっとつながっているんでしょうね」
冨田勲|ISAO TOMITA
1932年東京生まれ。作曲家/シンセサイザー・アーティスト。慶応義塾大学在学中から作曲家としての活動を開始。74年のアルバム『月の光』がビルボード誌の第1位を獲得し、同作品で日本人として初めてグラミー4部門にノミネートされる。NHK大河ドラマや、手塚治虫のアニメ「ジャングル大帝」「リボンの騎士」、山田洋次監督作品など、数多くのTV・映画音楽を手掛ける。2012年、宮沢賢治の作品を題材にした「イーハトーヴ交響曲」を発表。ソリストに初音ミクを起用し話題を集めた。2011年より“ISAO TOMITA PROJECT”を始動させ、過去作品のリメイク&サラウンド化による完全版を継続的に発表。2016年3月に、同プロジェクト・シリーズとして『オホーツク幻想』をリリースした。
同居人からオススメの新着が来た!
ゲーム音楽のクリエイターさんらしい
キュートで深みのある音です
http://music.disasterpeace.com/album/monsters-ate-my-birthday-cake-ost
魅力的な公演を上演してきた
彩の国さいたま
中止が発表された、イスラエル・ガルバンとカーンの公演は非常に残念ではあるが
以降も興味深いプログラムが予定されている。
プロデューサーの 佐藤まいみ さんのインタビュー記事が素敵な写真付きでUPされている
この10年の歩みと2016年~2017年度ラインアップを語る
http://www.ballet-factory.com/takahashi/new/035.html
ballet factory
佐藤まいみさんは1980年代にフランスでダンスの制作に携わり、帰国後横浜市開港130周年記念「ヨコハマ・アート・ウェーブ’89」アーティスティック・ディレクターに就任。以後、神奈川国際舞台芸術フェスティバルプロデューサー(神奈川芸術文化財団)、「フランスダンス’03」フェスティバル代表プロデューサー、「Dance Dance Dance @ YOKOHAMA」ディレクター(2012年&2015年)などの要職を歴任されてきました。2005年にフランス文化勲章オフィシェ受章。現在は彩の国さいたま芸術劇場プロデューサーとしてダンス公演のプロデュースに当たられています。
彩の国さいたま
中止が発表された、イスラエル・ガルバンとカーンの公演は非常に残念ではあるが
以降も興味深いプログラムが予定されている。
プロデューサーの 佐藤まいみ さんのインタビュー記事が素敵な写真付きでUPされている
この10年の歩みと2016年~2017年度ラインアップを語る
http://www.ballet-factory.com/takahashi/new/035.html
ballet factory
佐藤まいみさんは1980年代にフランスでダンスの制作に携わり、帰国後横浜市開港130周年記念「ヨコハマ・アート・ウェーブ’89」アーティスティック・ディレクターに就任。以後、神奈川国際舞台芸術フェスティバルプロデューサー(神奈川芸術文化財団)、「フランスダンス’03」フェスティバル代表プロデューサー、「Dance Dance Dance @ YOKOHAMA」ディレクター(2012年&2015年)などの要職を歴任されてきました。2005年にフランス文化勲章オフィシェ受章。現在は彩の国さいたま芸術劇場プロデューサーとしてダンス公演のプロデュースに当たられています。
も〜い〜くつねると〜GW〜♪
GWまでカウントダウン入りましたーー!
と休み前は息巻いていたが
いざGWに突入したものの
別段変わったこともなく・・・
一日中 我が家で “もふもふちゃん” と呼んでいる
白のもふもふしたパジャマでダラダラ過ごす日々
着てしまえば、ただの着ぐるみ状態@(・●・)@
更に、気分が乗ってる日は
同居人が八景島シーパラダイスから買って来てくれた
ペンギンの被りものも装着する
『どうしたの?』
『え?なにが〜』
お主、被って欲しくて買ってきたのではないか〜
身も蓋もない
そんな同居人は、ここ半年ほど
キャンプに出たままだ
キャンプと言っても、
バンドキャンプ
在宅中は、仕事をしてるかバンドキャンプをしてるかだ
“お前のコメントに数百人ついてきたぜ!”
“ヘイ お前の日本語を翻訳にかけたらブッ壊れるぜ!”とか言われながら、楽しげに次世代スターを発掘し続けている
その姿を尻目に
ゆる〜〜い映画を探す
『茶の味』
お題からして、隠居感たっぷり
はい〜再生〜
美容師さんから“髪は真ん中分けにしないでくださいねっ!”
と言われたが、どうしても真ん中からパッカリ分かれる自分の髪型が
ひと昔前の浅野忠信ヘアーであることに気づく・・・チンっ
中盤、何やら チンアナゴ?的な
楳図かずお?的な
物が現れる
森山開次さんみたいな???
チンコン‼︎
森山開次さんが何故か川縁で踊りだす
摩訶不思議な映画だが
迂闊にも泣けてシマッタ‼︎
いい映画では無いか
他、見どころは
ちょい出の草くんを見つけることだ
『インスタント沼』
『ゴージャス』
『小野寺の弟、小野寺の姉』、、、
ゆるゆると見続け
3度目となる
『時効警察』を見る
『あんた、見る物 他にないのかい??』
と聞こえてくるが
お構いなく
『ゆとりですがなにか』を見てたら
“これ、見てるの辛いわー 止めてあげてー”
とお主 言ったではないか!
時間を持て余しぎみの休暇
前置きが長〜くなったが
あの人は今
的なことをやってみた
フォーサイスのインスタレーションによる「The Fact of Matter」展
ウィリアム・フォーサイス
THE FACT OF MATTER
ウィリアム・フォーサイスのインスタレーションを中心に構成されたThe Fact of Matter展が、2015年10月17日から2016年3月13日までフランクフルト現代美術館で開催されていた。
フォーサイスは知性あふれる人物ではあるが、すべてのことを理詰めで決めていくわけでは決してない。むしろ、とりあえず実践しながら、その結果をみてどんどん変えていくという。これは即興性という言葉で表現できるだろう。ここで即興性という言葉で示したいのは単に事前の準備によらずその場で演じることだけではない。思いつきや面白味、その都度起こることを追いかけていくという心の動きやそこに含まれる自由さでもある。フォーサイスのインスタレーションは鑑賞者がこの即興性を発揮して体感するようにデザインされている。
『The Fact of Matter』(2009)多数のつり輪が天井から不規則にぶら下がっている。
この展覧会では鑑賞者が繰り返し自然と即興性を発揮させられることになる。たとえば羽根はたきをもって完全に静止しろと指示される『Towards the Diagnostic Gaze』(2013)、天井から吊り下げられた無数のおもりが不規則に動く中をおもりに触れずに通り抜ける『Nowhere and Everywhere at the Same Time, No.3』(2015)、人工的に発生させた霧にプロジェクターで投影された輪を乱さないように動くよう要請される『Additive Inverse』(2007)などを体験することを通して、鑑賞者は自然に自分の身体を内側から探り、周囲の空間への知覚を研ぎ澄まして運動へとつなげる。つまり鑑賞者は作品を対象として客観的に見るのではなく、主体的に体験することで作品を理解するのみならず、作品を媒介にして自分自身の身体を「見る」ことになるのである。フォーサイスがコレオグラフィック・オブジェクトと呼ぶこれらの作品群は、フォーサイスがダンスで実践してきたことを別の形で実現するものである。これまでフォーサイスはダンサーにさまざまなルールを課した上で即興的に踊らせることで、身体と精神の限界に挑戦し、ダンスの新たな可能性を探求してきた。そこで求められたのは、外延的な身体能力の向上だけではなく、身体に潜む思わぬ断絶や不随意の反応とその利用、あるいはコントロールすることはできないが、危機的状況の際に現れる身体システムの駆動でもあった。フォーサイスの考え方を学び実践してきたダンサーたちだからこそ可能であった探求だが、本展のようなコレオグラフィック・オブジェクトの形をとることで部分的にではあるが我々にも自らの精神と身体の可能性を探求することが可能になるのだ。つまり、これを体験することは、フォーサイスの「振付の不在を振付ける振付」(iii) を観客としてダンスを見るのとは別の角度から見ることだ。とはいえ、コレオグラフィック・オブジェクトはフォーサイスのダンスを理解するための解説書的なものでは決してない。それらは、フォーサイスのダンスを全く知らない人にも楽しめる開かれた作品であり、日常慣れ親しみ存在を意識すらしないようになっている自らの身体や認識のメカニズムを問いなおす格好の機会となる。
The Fact of Matter展にはこれまでのフォーサイスの実践のエッセンスがつめ込まれている。そこで鑑賞者は振付けられたダンスを見るのではなく、「振付の不在」を振付けられて自らダンスに参入し、更にはその姿が新たな人を自発的に「振付の不在」へと参入させることになる。コレオグラフィック・オブジェクトはそのために精密にデザインされている。ユーモラスな動き、他の鑑賞者たちの様子、オブジェクト自体の美しさ、鑑賞者が即興的に創意工夫できる余地など、さまざまな工夫が凝らされており、そこにフォーサイスのアーティストとしての才が遺憾なく発揮されている。そして、それらはやはり究極的にはダンスに捧げられている。「振付は踊る欲望への経路として機能しなければならない」とフォーサイスは言う。The Fact of Matter展に溢れる即興性はまさに鑑賞者を自身の身体の探求へと向かわせ、ダンスへの欲望の経路として機能するだろう。
写真:Dominik Mentzos
Choreographic Objects
by William Forsythe
An object is not so possessed by its own name that one could not find another or better therefore.
- Rene Magritte
Choreography is a curious and deceptive term. The word itself, like the processes it describes, is elusive, agile, and maddeningly unmanageable. To reduce choreography to a single definition is not to understand the most crucial of its mechanisms: to resist and reform previous conceptions of its definition.
There is no choreography, at least not as to be understood as a particular instance representing a universal or standard for the term. Each epoch, each instance of choreography, is ideally at odds with its previous defining incarnations as it strives to testify to the plasticity and wealth of our ability to re-conceive and detach ourselves from positions of certainty.
Choreography is the term that presides over a class of ideas: an idea is perhaps in this case a thought or suggestion as to a possible course of action. To prohibit or constrain the substitution or mobilization of terms within this domain is counterintuitive. The introduction and examination of the effect of terminological substitutions that reveal previously invisible facets of the practice is key to the development of procedural strategies.
Choreography elicits action upon action: an environment of grammatical rule governed by exception, the contradiction of absolute proof visibly in agreement with the demonstration of its own failure. Choreography's manifold incarnations are a perfect ecology of idea-logics; they do not insist on a single path to form-of-thought and persist in the hope of being without enduring.
Choreography and dancing are two distinct and very different practices.
In the case that choreography and dance coincide, choreography often serves as a channel for the desire to dance. One could easily assume that the substance of choreographic thought resided exclusively in the body. But is it possible for choreography to generate autonomous expressions of its principles, a choreographic object, without the body?
The force of this question arises from the real experience of the position of physical practices, specifically dance, in western culture. Denigrated by centuries of ideological assault, the body in motion, the obvious miracle of existence, is still subtly relegated to the domain of raw sense: precognitive, illiterate. Fortunately, choreographic thinking being what it is, proves useful in mobilizing language to dismantle the constraints of this degraded station by imagining other physical models of thought that circumvent this misconception. What else, besides the body, could physical thinking look like?
The blind French resistance fighter Jacques Lusseyran, writing about the inner sense of vision which enabled him to see and manipulate forms and thoughts, famously described it as being like a boundless mental canvas or screen which existed “nowhere and everywhere at the same time.” The blind mathematician Bernard Morin described his envisioning of the process of everting a sphere in a similar manner. And so it is with the choreographic object: it is a model of potential transition from one state to another in any space imaginable. An example of a similar transition already exists in another time-based art practice: the musical score. A score represents the potential of perceptual phenomena to instigate action, the result of which can be perceived by a sense of a different order: a transition via the body from the visual to the aural. A choreographic object, or score, is by nature open to a full palette of phenomenological instigations because it acknowledges the body as wholly designed to persistently read every signal from its environment.
I make this comment in relationship to Lusseyran and Morin to introduce the manifold possibility of our practice. Lusseyran’s inner vision enabled him to see topographies and project strategic movements of groups of people. Morin saw an event in the space of his mind that he then translated with haptic skill into sculptures and subsequently into the universal yet somewhat hermetic language of mathematics. Their quite substantial bodies, put into action by the force of their ideas, left very discernable traces of those ideas in the real world; from nowhere to somewhere, not everywhere, and no longer exclusively within their bodies.
But what if we, for a moment, look at the situation of the choreographic act. Historically choreography has been indivisible from the human body in action. The choreographic idea traditionally materializes in a chain of bodily action with the moments of its performance being the first, last and only instances of a particular interpretation. The idea's enactment is not sustained and cannot be repeated in the totality of its dimensions by any other means. As poignant as the ephemerality of the act might be, its transient nature does not allow for sustained examination or even the possibility of objective, distinct readings from the position that language offers the sciences and other branches of arts that leave up synchronic artifacts for detailed inspection. This lack of persistence through time, like the body itself, is natural and suspect at the same time. The irretrievability of the choreographic enactment, though possibly engendering a nostalgic thrill perhaps also reminds the viewer of the morbid foundations of that same sentiment.
Are we perhaps at the point in the evolution of choreography where a distinction between the establishment of its ideas and its traditional forms of enactment must be made? Not out of any dissatisfaction with the tradition, but rather in an effort to alter the temporal condition of the ideas incumbent in the acts, to make the organizing principles visibly persist. Could it be conceivable that the ideas now seen as bound to a sentient expression are indeed able to exist in another durable, intelligible state?
A choreographic object is not a substitute for the body, but rather an alternative site for the understanding of potential instigation and organization of action to reside. Ideally, choreographic ideas in this form would draw an attentive, diverse readership that would eventually understand and, hopefully, champion the innumerable manifestations, old and new, of choreographic thinking.
NOWHERE AND EVERYWHERE
GWまでカウントダウン入りましたーー!
と休み前は息巻いていたが
いざGWに突入したものの
別段変わったこともなく・・・
一日中 我が家で “もふもふちゃん” と呼んでいる
白のもふもふしたパジャマでダラダラ過ごす日々
着てしまえば、ただの着ぐるみ状態@(・●・)@
更に、気分が乗ってる日は
同居人が八景島シーパラダイスから買って来てくれた
ペンギンの被りものも装着する
『どうしたの?』
『え?なにが〜』
お主、被って欲しくて買ってきたのではないか〜
身も蓋もない
そんな同居人は、ここ半年ほど
キャンプに出たままだ
キャンプと言っても、
バンドキャンプ
在宅中は、仕事をしてるかバンドキャンプをしてるかだ
“お前のコメントに数百人ついてきたぜ!”
“ヘイ お前の日本語を翻訳にかけたらブッ壊れるぜ!”とか言われながら、楽しげに次世代スターを発掘し続けている
その姿を尻目に
ゆる〜〜い映画を探す
『茶の味』
お題からして、隠居感たっぷり
はい〜再生〜
美容師さんから“髪は真ん中分けにしないでくださいねっ!”
と言われたが、どうしても真ん中からパッカリ分かれる自分の髪型が
ひと昔前の浅野忠信ヘアーであることに気づく・・・チンっ
中盤、何やら チンアナゴ?的な
楳図かずお?的な
物が現れる
森山開次さんみたいな???
チンコン‼︎
森山開次さんが何故か川縁で踊りだす
摩訶不思議な映画だが
迂闊にも泣けてシマッタ‼︎
いい映画では無いか
他、見どころは
ちょい出の草くんを見つけることだ
『インスタント沼』
『ゴージャス』
『小野寺の弟、小野寺の姉』、、、
ゆるゆると見続け
3度目となる
『時効警察』を見る
『あんた、見る物 他にないのかい??』
と聞こえてくるが
お構いなく
『ゆとりですがなにか』を見てたら
“これ、見てるの辛いわー 止めてあげてー”
とお主 言ったではないか!
時間を持て余しぎみの休暇
前置きが長〜くなったが
あの人は今
的なことをやってみた
フォーサイスのインスタレーションによる「The Fact of Matter」展
ウィリアム・フォーサイス
THE FACT OF MATTER
ウィリアム・フォーサイスのインスタレーションを中心に構成されたThe Fact of Matter展が、2015年10月17日から2016年3月13日までフランクフルト現代美術館で開催されていた。
フォーサイスは知性あふれる人物ではあるが、すべてのことを理詰めで決めていくわけでは決してない。むしろ、とりあえず実践しながら、その結果をみてどんどん変えていくという。これは即興性という言葉で表現できるだろう。ここで即興性という言葉で示したいのは単に事前の準備によらずその場で演じることだけではない。思いつきや面白味、その都度起こることを追いかけていくという心の動きやそこに含まれる自由さでもある。フォーサイスのインスタレーションは鑑賞者がこの即興性を発揮して体感するようにデザインされている。
『The Fact of Matter』(2009)多数のつり輪が天井から不規則にぶら下がっている。
この展覧会では鑑賞者が繰り返し自然と即興性を発揮させられることになる。たとえば羽根はたきをもって完全に静止しろと指示される『Towards the Diagnostic Gaze』(2013)、天井から吊り下げられた無数のおもりが不規則に動く中をおもりに触れずに通り抜ける『Nowhere and Everywhere at the Same Time, No.3』(2015)、人工的に発生させた霧にプロジェクターで投影された輪を乱さないように動くよう要請される『Additive Inverse』(2007)などを体験することを通して、鑑賞者は自然に自分の身体を内側から探り、周囲の空間への知覚を研ぎ澄まして運動へとつなげる。つまり鑑賞者は作品を対象として客観的に見るのではなく、主体的に体験することで作品を理解するのみならず、作品を媒介にして自分自身の身体を「見る」ことになるのである。フォーサイスがコレオグラフィック・オブジェクトと呼ぶこれらの作品群は、フォーサイスがダンスで実践してきたことを別の形で実現するものである。これまでフォーサイスはダンサーにさまざまなルールを課した上で即興的に踊らせることで、身体と精神の限界に挑戦し、ダンスの新たな可能性を探求してきた。そこで求められたのは、外延的な身体能力の向上だけではなく、身体に潜む思わぬ断絶や不随意の反応とその利用、あるいはコントロールすることはできないが、危機的状況の際に現れる身体システムの駆動でもあった。フォーサイスの考え方を学び実践してきたダンサーたちだからこそ可能であった探求だが、本展のようなコレオグラフィック・オブジェクトの形をとることで部分的にではあるが我々にも自らの精神と身体の可能性を探求することが可能になるのだ。つまり、これを体験することは、フォーサイスの「振付の不在を振付ける振付」(iii) を観客としてダンスを見るのとは別の角度から見ることだ。とはいえ、コレオグラフィック・オブジェクトはフォーサイスのダンスを理解するための解説書的なものでは決してない。それらは、フォーサイスのダンスを全く知らない人にも楽しめる開かれた作品であり、日常慣れ親しみ存在を意識すらしないようになっている自らの身体や認識のメカニズムを問いなおす格好の機会となる。
The Fact of Matter展にはこれまでのフォーサイスの実践のエッセンスがつめ込まれている。そこで鑑賞者は振付けられたダンスを見るのではなく、「振付の不在」を振付けられて自らダンスに参入し、更にはその姿が新たな人を自発的に「振付の不在」へと参入させることになる。コレオグラフィック・オブジェクトはそのために精密にデザインされている。ユーモラスな動き、他の鑑賞者たちの様子、オブジェクト自体の美しさ、鑑賞者が即興的に創意工夫できる余地など、さまざまな工夫が凝らされており、そこにフォーサイスのアーティストとしての才が遺憾なく発揮されている。そして、それらはやはり究極的にはダンスに捧げられている。「振付は踊る欲望への経路として機能しなければならない」とフォーサイスは言う。The Fact of Matter展に溢れる即興性はまさに鑑賞者を自身の身体の探求へと向かわせ、ダンスへの欲望の経路として機能するだろう。
写真:Dominik Mentzos
Choreographic Objects
by William Forsythe
An object is not so possessed by its own name that one could not find another or better therefore.
- Rene Magritte
Choreography is a curious and deceptive term. The word itself, like the processes it describes, is elusive, agile, and maddeningly unmanageable. To reduce choreography to a single definition is not to understand the most crucial of its mechanisms: to resist and reform previous conceptions of its definition.
There is no choreography, at least not as to be understood as a particular instance representing a universal or standard for the term. Each epoch, each instance of choreography, is ideally at odds with its previous defining incarnations as it strives to testify to the plasticity and wealth of our ability to re-conceive and detach ourselves from positions of certainty.
Choreography is the term that presides over a class of ideas: an idea is perhaps in this case a thought or suggestion as to a possible course of action. To prohibit or constrain the substitution or mobilization of terms within this domain is counterintuitive. The introduction and examination of the effect of terminological substitutions that reveal previously invisible facets of the practice is key to the development of procedural strategies.
Choreography elicits action upon action: an environment of grammatical rule governed by exception, the contradiction of absolute proof visibly in agreement with the demonstration of its own failure. Choreography's manifold incarnations are a perfect ecology of idea-logics; they do not insist on a single path to form-of-thought and persist in the hope of being without enduring.
Choreography and dancing are two distinct and very different practices.
In the case that choreography and dance coincide, choreography often serves as a channel for the desire to dance. One could easily assume that the substance of choreographic thought resided exclusively in the body. But is it possible for choreography to generate autonomous expressions of its principles, a choreographic object, without the body?
The force of this question arises from the real experience of the position of physical practices, specifically dance, in western culture. Denigrated by centuries of ideological assault, the body in motion, the obvious miracle of existence, is still subtly relegated to the domain of raw sense: precognitive, illiterate. Fortunately, choreographic thinking being what it is, proves useful in mobilizing language to dismantle the constraints of this degraded station by imagining other physical models of thought that circumvent this misconception. What else, besides the body, could physical thinking look like?
The blind French resistance fighter Jacques Lusseyran, writing about the inner sense of vision which enabled him to see and manipulate forms and thoughts, famously described it as being like a boundless mental canvas or screen which existed “nowhere and everywhere at the same time.” The blind mathematician Bernard Morin described his envisioning of the process of everting a sphere in a similar manner. And so it is with the choreographic object: it is a model of potential transition from one state to another in any space imaginable. An example of a similar transition already exists in another time-based art practice: the musical score. A score represents the potential of perceptual phenomena to instigate action, the result of which can be perceived by a sense of a different order: a transition via the body from the visual to the aural. A choreographic object, or score, is by nature open to a full palette of phenomenological instigations because it acknowledges the body as wholly designed to persistently read every signal from its environment.
I make this comment in relationship to Lusseyran and Morin to introduce the manifold possibility of our practice. Lusseyran’s inner vision enabled him to see topographies and project strategic movements of groups of people. Morin saw an event in the space of his mind that he then translated with haptic skill into sculptures and subsequently into the universal yet somewhat hermetic language of mathematics. Their quite substantial bodies, put into action by the force of their ideas, left very discernable traces of those ideas in the real world; from nowhere to somewhere, not everywhere, and no longer exclusively within their bodies.
But what if we, for a moment, look at the situation of the choreographic act. Historically choreography has been indivisible from the human body in action. The choreographic idea traditionally materializes in a chain of bodily action with the moments of its performance being the first, last and only instances of a particular interpretation. The idea's enactment is not sustained and cannot be repeated in the totality of its dimensions by any other means. As poignant as the ephemerality of the act might be, its transient nature does not allow for sustained examination or even the possibility of objective, distinct readings from the position that language offers the sciences and other branches of arts that leave up synchronic artifacts for detailed inspection. This lack of persistence through time, like the body itself, is natural and suspect at the same time. The irretrievability of the choreographic enactment, though possibly engendering a nostalgic thrill perhaps also reminds the viewer of the morbid foundations of that same sentiment.
Are we perhaps at the point in the evolution of choreography where a distinction between the establishment of its ideas and its traditional forms of enactment must be made? Not out of any dissatisfaction with the tradition, but rather in an effort to alter the temporal condition of the ideas incumbent in the acts, to make the organizing principles visibly persist. Could it be conceivable that the ideas now seen as bound to a sentient expression are indeed able to exist in another durable, intelligible state?
A choreographic object is not a substitute for the body, but rather an alternative site for the understanding of potential instigation and organization of action to reside. Ideally, choreographic ideas in this form would draw an attentive, diverse readership that would eventually understand and, hopefully, champion the innumerable manifestations, old and new, of choreographic thinking.
NOWHERE AND EVERYWHERE
今回はダンサーさん(舞踏家)の展示ということで
足を運んでみた
階段を登ると
そこはマクロコスモスの世界
作品は今回のテーマでもある
無数の123で構成されている
その123は
全て手書きであることに驚く
写経を思い出した
単純な作業を延々続けていると
無になる
久方ぶりに写経をしてみようと言う気になった
齊藤智仁「123」展 《第2章》123を描き続ける男
世界で今一番「123」(イチ・ニ・サン)という数字と向き合う男、齊藤智仁によるユニークな展覧会「123」展が、札幌のクラークギャラリー+SHIFTにて4月2日より開催される。齊藤は、高校生時代にブレイクダンスを始め、29歳までダンスや舞踏など身体表現のフィールドで活動。現在は舞台演出や振付などを手掛けながら、身体表現で培ってきた哲学を基礎に「123」という数字を使い、美術家として平面や造形作品を制作する。
昨年12月に札幌市内で行なわれた「123展」の第1章に続く本展では、1枚の紙に1~2mmの「123」を100万字以上描きながら様々なカタチを描いた平面作品や、日記のように毎日描き続けている「123」を並べた作品、身近なモノに「123」を描いた造形作品や、「123」のリズムで紐を縛る作品、そして「123」を繰り返す音楽作品など、描いた本人も数えきれないほどの「123」を展示する。
会期中には公開制作なども行われる予定。また会期にあわせ、MUSEUM STOREにて取り扱いのあるブランド「ワンピースとタイツ」より「123」タイツも発売される。様々な時に、様々な音楽を聴き、様々なキモチで描かれた「123」の連続は、見る人や展示空間へ様々なリズムを与えてくれる。
会期:2016年4月2日(土)~30日(土)
時間:11:00~19:00(月曜・第3火曜日休廊)
会場:クラークギャラリー+SHIFT
住所:札幌市中央区南3条東2丁目6 MUSEUM 2階
TEL:011-596-7752
http://www.clarkgallery.co.jp
足を運んでみた
階段を登ると
そこはマクロコスモスの世界
作品は今回のテーマでもある
無数の123で構成されている
その123は
全て手書きであることに驚く
写経を思い出した
単純な作業を延々続けていると
無になる
久方ぶりに写経をしてみようと言う気になった
齊藤智仁「123」展 《第2章》123を描き続ける男
世界で今一番「123」(イチ・ニ・サン)という数字と向き合う男、齊藤智仁によるユニークな展覧会「123」展が、札幌のクラークギャラリー+SHIFTにて4月2日より開催される。齊藤は、高校生時代にブレイクダンスを始め、29歳までダンスや舞踏など身体表現のフィールドで活動。現在は舞台演出や振付などを手掛けながら、身体表現で培ってきた哲学を基礎に「123」という数字を使い、美術家として平面や造形作品を制作する。
昨年12月に札幌市内で行なわれた「123展」の第1章に続く本展では、1枚の紙に1~2mmの「123」を100万字以上描きながら様々なカタチを描いた平面作品や、日記のように毎日描き続けている「123」を並べた作品、身近なモノに「123」を描いた造形作品や、「123」のリズムで紐を縛る作品、そして「123」を繰り返す音楽作品など、描いた本人も数えきれないほどの「123」を展示する。
会期中には公開制作なども行われる予定。また会期にあわせ、MUSEUM STOREにて取り扱いのあるブランド「ワンピースとタイツ」より「123」タイツも発売される。様々な時に、様々な音楽を聴き、様々なキモチで描かれた「123」の連続は、見る人や展示空間へ様々なリズムを与えてくれる。
会期:2016年4月2日(土)~30日(土)
時間:11:00~19:00(月曜・第3火曜日休廊)
会場:クラークギャラリー+SHIFT
住所:札幌市中央区南3条東2丁目6 MUSEUM 2階
TEL:011-596-7752
http://www.clarkgallery.co.jp
筋膜リリースローラー
筋肉を包む膜「筋膜」
普段は柔軟さとバランスをキープしているが、水分を失い柔軟性が無くなると、痛みを誘発する原因“トリガーポイント”になってしまうらしい。
その筋膜の“トリガーポイント”を効果的に刺激するために「筋膜リリースローラー」を活用。
ローラーの上に足や腕やお尻をのせてコロコロと転がすだけ。
とのうたい文句で、使用例の写真も動画も難なくコロコロしているが、
手・足の筋肉及び腹筋・背筋が弱い方にはお勧めできない。
公式サイト(http://triggerpoint.jp/how-to/)におすすめの使い方が紹介されているので、購入前に必ずチェック!!
普段、運動をしている方には超お勧めです。
お尻に溜まっている、毒素も排出。
体重により負荷が変わるものと思われますが、脇腹とスネをコロコロすると、痛くて笑いが止まりません。
マッサージに行っても、背面は丹念にマッサージしてもらえますが、表側はオイルマッサージやフットマッサージ以外は ほぼスルー
私は、ゴルフボール派ですが筋膜マッサージによく使われているテニスボールより接点が小さいので、より効果的にポイント刺激できます。
が、持ち歩きには不向きです。
┃筋膜とは何か?
筋膜とは筋肉、臓器、骨などを包んでいる膜のこと。ちょうどみかんの果肉を包む薄皮等と表現されますが、筋膜がないと、人間は今の形状でいることができない、と言われるほどかなり大事なもの。ところが筋膜は固まりやすいという弱点があるのです。
┃筋膜はがしとは?
筋膜はがし(筋膜リリース)とは、ざっくり判りやすく言えば今まで行われているストレッチよりも何倍も効果的なストレッチ方法。
専門家が指導するアスリートやパーソナルジムでは以前から行われていましたが、最近痛みやダイエット効果との関連からかなり注目されるようになってきています。正しく行えば腰痛、ひざ痛の軽減や、ダイエットにもかなり効果的とのこと!ヌヌヌッ
BLANXホワイトショックLEDの効果
ブルーLED搭載で光触媒効果を得るという、近代的なホワイトニング歯磨き粉
昨年の発売当初は、イタリアから上陸という謳い文句で手に入りずらかったのですが現在は容易く入手できます。
歯ブラシに絞り出した歯磨き粉に10秒ほどLEDを照射
歯磨き粉自体は、薄っすらとミント味・泡立ち少なめ
歯磨き終了後に、歯自体に10秒ほどLEDを照射
これで完成です!
害がないとのことですが、歯磨き粉自体、体に良いものではありません。ならば。
これくらい!!
どうやら、酸化チタン (TiO2)に秘密が
代表的な光触媒活性物質として、知られている。
現在、実用化されている光触媒はこれだけである。
酸化チタンの応用例として、酸化作用を利用した有害物質の分解などもある。ただし有害物質の処理に関しては、他の処理技術のほうが効率や処理できる量の面で優れている場合が多い。そのため、酸化チタンを用いる手法では、有害物質の処理が光照射だけで済むという特長を生かした応用が行われている。たとえば病院の手術室の壁・床を酸化チタンでコーティングすることで、ブラックライト(紫外光ランプ)を照らすだけの容易な殺菌処理が可能となる。この応用は既に製品化されており、一部の病院で利用されている
これからGetしたいもの!
どう努力しても避けられない光線が肌にダメージを与えているという衝撃の事実。
研究の結果、ブルーライトにより肌細胞が変色すること、それもたった1時間で色素沈着を引き起こし、さらにその沈着は相当頑固に残ることが明らかに。新たなる、スマホ病。。。
スキンケアコスメの人気ブランド『LANCOME(ランコム)』からは"ブルーライト"から肌を守り抜くクリームの発売が発表されています。ブルーライトはもはや美容のためにケアすべきものなのです。
ブルーライトは波長特性から肌の深い所に皮下組織の下の血液まで浸透すると言われております。皮膚の老化の理由の一つとされております。
2016.3.7公開
出演:土屋太鳳
振付:辻本知彦
プロデューサー:秋山直樹
監督:小山巧
撮影:谷詩文
照明:藤田昌樹
ヘアメイク:新宮利彦(Surge Creators)
スタイリスト:早川すみれ
衣装協力:チャコット
MV再生回数24億回、グラミー賞2度のノミネート歴、全米チャート1位獲得の実績を誇り、最新アルバム『ディス・イズ・アクティング』は全世界50カ国以上のiTunesチャートで1位を記録し、主要9カ国のアルバム・チャートでトップ10入りを果たすなど、今最も注目されている“顔なき”シンガー・ソングライター=シーア。最新アルバムより、女優・土屋太鳳が出演する「アライヴ」の日本版ミュージック・ビデオが公開!
情熱大陸で見た時の印象とはかなり違う感じ
振り付けが、辻本知彦さんであることにも注目
M1 コンタクト コンテンポラリーダンス・フェスティバル
2015年は11/26~12/12にかけて行われました。
2010年にT.H.E Dance Companyを率いる振付家クイック・スィブンのイニシアチブによって設立されたシンガポールの国際ダンスフェスティバル。ダンス作品を見るだけではなく、感じ、行い、考えることを指針としている。約30のテクニック・クラス、ワークショップ、そして国際シーンで活躍するアーティストによる公演が行われる。
http://the-contact.org/shows/
Video有り
クイック・スィ・ブン
シンガポールにおけるコンテポラリーダンスの普及をリードしてきた
2007年にスペインからシンガポールに帰国
私が帰国した当時、シンガポールではまだ「コンテンポラリーダンスは難しくて、理解できなくて、楽しめない」という反応が大半でした。その印象を変えるには、カンパニーの活動だけでは十分ではなかった。こうした状況はシンガポールだけのことではなく、近隣の東南アジア全体でもっと国際的な視野からコンテンポラリーダンスについて考え、教育する機会をつくることが必要だと思いました。ですから、初めから“国際フェスティバル”をイメージしてM1 CONTACTを立ち上げました。素晴らしいアーティストに出会うと、人は情熱的になり、他人にも伝えたくなりますから。と同時に、私は常に「ここから何を学ぶことができるか」を自問自答しています。
ですよねーですよねー
現在でも「コンテンポラリーダンスは難しくて、理解できなくて、楽しめない」というような言葉を耳にします。
ターゲットマーケティングのように、どこに向けて発信するか発信側が明確なビジョンを持つことも必要かもしれません。
2015年は11/26~12/12にかけて行われました。
2010年にT.H.E Dance Companyを率いる振付家クイック・スィブンのイニシアチブによって設立されたシンガポールの国際ダンスフェスティバル。ダンス作品を見るだけではなく、感じ、行い、考えることを指針としている。約30のテクニック・クラス、ワークショップ、そして国際シーンで活躍するアーティストによる公演が行われる。
http://the-contact.org/shows/
Video有り
クイック・スィ・ブン
シンガポールにおけるコンテポラリーダンスの普及をリードしてきた
2007年にスペインからシンガポールに帰国
私が帰国した当時、シンガポールではまだ「コンテンポラリーダンスは難しくて、理解できなくて、楽しめない」という反応が大半でした。その印象を変えるには、カンパニーの活動だけでは十分ではなかった。こうした状況はシンガポールだけのことではなく、近隣の東南アジア全体でもっと国際的な視野からコンテンポラリーダンスについて考え、教育する機会をつくることが必要だと思いました。ですから、初めから“国際フェスティバル”をイメージしてM1 CONTACTを立ち上げました。素晴らしいアーティストに出会うと、人は情熱的になり、他人にも伝えたくなりますから。と同時に、私は常に「ここから何を学ぶことができるか」を自問自答しています。
ですよねーですよねー
現在でも「コンテンポラリーダンスは難しくて、理解できなくて、楽しめない」というような言葉を耳にします。
ターゲットマーケティングのように、どこに向けて発信するか発信側が明確なビジョンを持つことも必要かもしれません。
1969年、人類初の月面着陸(アポロ11号)の予行演習として月に向かったアポロ10号。
その乗組員たちは、月の裏側で不思議な「音楽」を聞いた。
これまで極秘にされていたその音源を、NASAが公開した。
地球との交信が途絶えると
アポロ10号のミッションは、アポロ11号とまったく同じ経路を通って地球と月を往復することだった。そのミッションには、月の周回軌道に乗って月の裏側に行くことも含まれている。
月の裏側に入ると地球からの電波が届かず、宇宙船と地上管制室との交信は一切途絶えてしまう。
その間に宇宙船内では何ごともなかったように報道されていたが、当時から40年経った今、宇宙飛行士たちが「音楽」のような奇妙な音を聞いていたことを、NASAが公表した。
奇妙な笛のような音
宇宙船が月の裏側に入っている約1時間、地球とは交信できないが、宇宙船内の録音は保存されている。
下にあるのが、奇妙な音が聞こえた時の3人の宇宙飛行士たちの会話だ。
「なんだか、よくある宇宙的な音楽という感じだな」
「聞こえたのか? あの笛みたいなヒューヒューいう音が?」
「ああ。確かに奇妙な音楽だな」
「信じられん! そうだろう?」
「地上に報告すべきかな?」
「よくわからん。ちょっと考えてみないと」
その音を、下のYouTube動画の2分05秒あたりから聞くことができる。(アナウンサーの音声のバックグラウンドに流れている)
今もって説明はつかず
この録音記録は、当時「アメリカ国民のためにならない」という理由で、NASAの内部で極秘扱いになっていたという。
また、2008年頃から、この音の正体について議論が交わされており、電磁場の影響であるとか、月の大気中を流れる粒子が通信機器に干渉したのだといった説が出た。
しかし、月に電磁場は存在せず、通信機器に影響するほどの大気も月にはなく、NASAの科学者たちはこの「音楽」の謎を今も説明できていない。
出典元:Was it Pink Floyd? Apollo 10 astronauts heard mysterious 'music' on the dark side of the moon, newly uncovered tapes reveal - Mail Online(2.21)
出典元:Lost tapes reveal Apollo astronauts heard 'music' on far side of the moon - Fox 8(2.20)
NASAは、この音について「宇宙人の音楽」だった可能性はないとしている。
NASAの技術者の説明によると、互いに近くにある月着陸船と司令船の無線電波が起こした干渉で生じた雑音だった可能性が高いという。
が
サーナン氏の言うところの「宇宙空間系の音楽」であって欲しいと願うのでした(^ー^)ノ
その乗組員たちは、月の裏側で不思議な「音楽」を聞いた。
これまで極秘にされていたその音源を、NASAが公開した。
地球との交信が途絶えると
アポロ10号のミッションは、アポロ11号とまったく同じ経路を通って地球と月を往復することだった。そのミッションには、月の周回軌道に乗って月の裏側に行くことも含まれている。
月の裏側に入ると地球からの電波が届かず、宇宙船と地上管制室との交信は一切途絶えてしまう。
その間に宇宙船内では何ごともなかったように報道されていたが、当時から40年経った今、宇宙飛行士たちが「音楽」のような奇妙な音を聞いていたことを、NASAが公表した。
奇妙な笛のような音
宇宙船が月の裏側に入っている約1時間、地球とは交信できないが、宇宙船内の録音は保存されている。
下にあるのが、奇妙な音が聞こえた時の3人の宇宙飛行士たちの会話だ。
「なんだか、よくある宇宙的な音楽という感じだな」
「聞こえたのか? あの笛みたいなヒューヒューいう音が?」
「ああ。確かに奇妙な音楽だな」
「信じられん! そうだろう?」
「地上に報告すべきかな?」
「よくわからん。ちょっと考えてみないと」
その音を、下のYouTube動画の2分05秒あたりから聞くことができる。(アナウンサーの音声のバックグラウンドに流れている)
今もって説明はつかず
この録音記録は、当時「アメリカ国民のためにならない」という理由で、NASAの内部で極秘扱いになっていたという。
また、2008年頃から、この音の正体について議論が交わされており、電磁場の影響であるとか、月の大気中を流れる粒子が通信機器に干渉したのだといった説が出た。
しかし、月に電磁場は存在せず、通信機器に影響するほどの大気も月にはなく、NASAの科学者たちはこの「音楽」の謎を今も説明できていない。
出典元:Was it Pink Floyd? Apollo 10 astronauts heard mysterious 'music' on the dark side of the moon, newly uncovered tapes reveal - Mail Online(2.21)
出典元:Lost tapes reveal Apollo astronauts heard 'music' on far side of the moon - Fox 8(2.20)
NASAは、この音について「宇宙人の音楽」だった可能性はないとしている。
NASAの技術者の説明によると、互いに近くにある月着陸船と司令船の無線電波が起こした干渉で生じた雑音だった可能性が高いという。
が
サーナン氏の言うところの「宇宙空間系の音楽」であって欲しいと願うのでした(^ー^)ノ
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