~DanceとSakeを愛する者のメモ~      Dance studio R
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勅使川原三郎さんのインタビューが非常に興味深い
これだけご活躍され・踊られているのに“もっと踊りたい”とは何事なのか
その原動力となっているものは果たして何のか・・・
Performing Arts Network Japanより9.14付けインタビュー記事

Artist Interview
2016.9.14
dance
“I want to dance even more.” The new horizons of Saburo Teshigawara
“もっと踊りたい”勅使川原三郎の新境地
世界で活躍し、多忙を極める勅使川原三郎。ダンサー、振付家であることを越えて、自ら照明、美術、衣装、音楽を手掛けるのに加え、オペラの演出、インスタレーションや映像作品をつくるアーティスト活動など、マルチな才能を存分に発揮している。舞台作品では抽象的で硬質なイメージが強かったが、近年では小説やクラシック音楽をモチーフにするなど、作品の幅が広がっている。さらに、2013年には自らの活動拠点となるスタジオ「KARAS APPARATUS」をオープンし、小空間を活かした「アップデイトダンス」シリーズをスタートするなど、旺盛な創作活動は止まることを知らない。日本のコンテンポラリーダンス状況にも冷静な分析を加え、観客とともに新しいダンス、新しい身体を切り開こうと挑み続ける勅使川原に、前回(2008年)の「アーティスト・インタビュー」後から現在に至るまでの、活動の広がりを聞いた。
聞き手:稲田奈緒美


新たな創作拠点「KARAS APPARATUS」

──2013年7月に、劇場(60席)、スタジオ、ギャラリーを備えた活動拠点「KARAS APPARATUS(カラス アパラタス)」を東京・荻窪にオープンしました。「アパラタス」とはラテン語で「装置」という意味ですが、名前の由来を教えください。また、なぜ新たな活動拠点をつくられたのですか。
 舞台に装置を置かなくても、劇場全体が装置でありたいという考えから名付けました。アパラタスをつくったのは、単純に「もっと踊りたい」という思いがあったからです。それまでは亀戸にスタジオがあり、そこで稽古をして劇場で公演するのが通常ですが、劇場公演は当然だけど長期の準備が必要。KARASがいい作品を多くつくり、いいダンスが豊かにできても、多くの人に見てもらいたいと思っても、自由に公演できるわけではない。創り手が自分勝手にやる、創り手が主体性をもって表現する空間があってもいいと思いました。劇場としての規模は小さいですが、アパラタスでやることと大劇場でやることの価値はなんら変わりません。例えば、イヨネスコやベケットが公演したのもパリの真ん中にある凄く小さい劇場でしたし、20世紀にとても大事な演劇の動きがあったのはそういう小劇場からです。

──アパラタスでは、「毎日新陳代謝をしていて、細胞が入れ替わっている身体で、毎日アップデートしているこの身体で、ほぼ毎日、公演する」という「アップデイトダンス」シリーズをスタートします。1年目はNo.1の『平均律、バッハより』『真夏の夜の犬』からNo.4まで、2年目はNo.5『モーツァルト』からNo.15まで、3年目は『道化』『ゴドーを待ちながら』などNo.28まで。2016年は無音で行われた『静か』、宮沢賢治の口語詩をモチーフにした『春と修羅』や『トリスタンとイゾルデ』など、6月までの半年間で既にNo.36になっています。同じタイトルでもソロだったり、デュオだったり、モチーフも音楽あり、文学ありと実に多彩です。
 1作品8回公演ぐらいで、作品によっては再演もしていますが、今年は半年でもう70ステージほど公演しています。回数を多くやるのは我々にとって貴重な経験になることもありますが、観客にもっと観て欲しいからです。アパラタスは舞台と客席が至近距離なので、ダンサーの身体感覚を共有でき、我々も観客の力というか、圧を感じる。まさにそこで“創っている”という感じがします。例えば「静か」を初演したときは、観客が沈黙をつくりました。アパラタスはこういう表現の場であるとともに、人との出会いなど、いろいろなことが交差していく場だと感じています。

──日本でもかつてあった小劇場運動のようですね。
 その影響はあるかもしれない。僕が初めて自分の公演をしたのは、劇団旧眞空鑑がアトリエにしていた元工場の旧眞空鑑劇場でした。彼らの『ゴドーを待ちながら』を観たときはすごいショックで、いまだに僕にとって最高の「ゴドー」です。でも、そこはコアな人が集まる密室的な場だった。アパラタスはそうではなくて、開かれていることが大事なのだと思います。
 アパラタスを持つことで考えるようになったのは、「パブリックとは何か」ということです。ここは自分たちの公演しかしない、プライベートな空間です。だけど、このプライベートが如何にパブリックになり得るかがテーマになってくる。パブリックというのは大きい場所、空間、人数だと思いがちだけど、人数が少なくても、不特定な人たちがここが開かれたときにやって来て、場を共有するという意味ではパブリックなんじゃないでしょうか。
 アパラタスでは、毎回、公演後にステージに立って、マイクを持ってしゃべっているんです。公演を「ああ良かった」と思って、そのままスッと帰りたいお客さんがいるかもしれないけど、喋る!(笑)。パブリックであるためには、顔を出して、個人の中にあるものを出して、これでいいんだろうか?と問いかけることが必要なんじゃないか‥‥。もう演出や仕掛けで何かできる時代じゃないと思います。公演の後、ロビーに出ていると話しかけてくれる人も結構いて、面白いです。僕は舞台でみなさんと出会い、ロビーで話しを聞くんです。

──演出、仕掛けというのは?
 劇場という仕掛け、興行としての売り方や見せ方。この前、夜中にプリンスの1980年代のライブを見ましたが、凄かった。もちろんショーとしての演出はありましたが、プリンスという人間の才能がボーンと出ていて、最後は演技、演出を超えて生き様として伝わってきました。

──生き様を見せることでその人が現実であり続け、それによってリアリティを表現者も観客も共に感じることができる。それが「プライベートであることがパブリックになる」ことに繋がるのかもしれませんね。
 そう思いますよね。本気でやっているなら、劇場の大小などに関わらずどんなものでも分け隔てなくやる。それは逆説的なヒロイズムではなく、最大限やるべきことをやるということだと思います。


言葉からの刺激

──エッジーで抽象性の高いダンスを創造してこられた勅使川原さんが、文学を基に作品をつくられるようになったのは意外でした。最初の作品は、オーストリアの作家ロベルト・ムージルの未完の長編「特性のない男」をモチーフにした『身体実験劇場「ない男」』(2008)でした。
 レイ・ブラッドベリ、稲垣足穂などは好きで昔から読んでいて作品もつくっていました。音楽、ノイズもそうですし、文学もそうですが、僕はすべてを道具、モノ、オブジェのように扱います。それは、そのオブジェに自分が“扱われたい”ということでもあります。
 もともと僕はいろんな物事を難しく捉えるのが好きなんです。多面的な視点を持つために。1つの質問から100個ぐらい答えを考えるほど、物事を複雑に捉えたい。簡素にみるために、率直になるために。時としてネガティヴな目も有効です。ある時から、その“難しい事とは何か”を探すのが凄く面白くなってしまった。“難しい”というのは具体的な難しさのことで、訳がわからない難しさではありません。つまり、彫刻がいろんな面によって立体をつくりあげているように、一面的なものの見方ではない方が面白いし、ズレも出てより面白い。振り返ると、そう考えるようになったのが、「ない男」のときでした。小説を用いたいと思ったのは、自分自身を試したかったのかもしれません。原作から難しい質問、課題を投げ掛けられたいと思ったんです。

──「特性のない男」の主人公はアガーテという恋人をもつウルリッヒで、明晰な文体によって彼の心理描写、情景描写、詩的な隠喩が執拗に続きます。『身体実験劇場「ない男」』では、そうした小説の言葉が淡々と流れる中、身体がその物語を演じるのではなく、ある瞬間、言葉と一致したかと思うとすぐに離れ、干渉し、重奏し、拮抗していました。身体と言葉の関係を模索し、新たに築く実験だと思いました。
 明快な原作を基につくることによって、身体とは何か、言葉とは何か、と考えることになりました。それから、“伝達する”とは何なのかということも考えました。これはすごく大事なことで、難しいことです。たくさん喋れる人、多弁な人は伝達が上手なのか、その反対の人は下手なのか。絵画は伝達のために描くのか、そうではなく存在をまず明らかにしたいから描いているのか‥‥。

──その後、ユダヤ系作家・画家でゲシュタポに殺害されたブルーノ・シュルツを取り上げ、シアターX(カイ)で連続上演しています。その第1弾が短編集『砂時計サナトリウム』の「春」をモチーフにした『春、一夜にして』(2013)です。同年、この短編集から合わせて3作、2014年にも3作を発表。また、2015年に『青い目の男』、2016年に短編集『肉桂色の店』をモチーフにした『シナモン 言葉の破片による動体彫刻』を発表し、創作意欲が衰えることがありません。別のインタビューで「シュルツの持っている危機感が人間を動かす力になっている」ことに興味があると言われています。
 シュルツの場合は、テキストを随分使っています。でもそれをダンスに翻訳するのが僕の役割ではなく、そこからものをつくり出したい、掘り出したい、まだ誰にもつくられていない形をつくりたいと思っています。これ以上余分な言葉を使わなくていい、というところまで潔く表現したい。

──シュルツ以外にも、スペインの詩人フアン・ラモン・ヒメネスの散文詩集を基にした『プラテーロと私』(2014)、サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』(2015)、宮沢賢治の『春と修羅』(2016)、ドストエフスキーの『白痴』(2016)とさまざまな題材を選ばれていますね。
 音楽に例えれば室内楽とオーケストラが違うように、規模の大きさ、登場人物、設定の違いはそれぞれにあります。ただ、短編であれ長編であれ、何がそこでできるのか、身体で何が生まれるのか、言葉と身体とは何なのか、ということがダンスにとっての課題です。「音楽があればダンスは踊れる、それをダンスと見なす」というシンプルなものもあるかもしれませんが、言葉と関わる身体とはどんなものかを考えるのは既に決められた尺度で動きの種類を決定していくこととは異なります。言葉の内容をどう受け取るかが身体的な表現になっていくプロセスは、豊かというか、とても面白い経験でした。

──どのように小説や詩に取り組むのですか?
 2つあります。ひとつは、シュルツでもドストエフスキーでも、作家がどういうものの見方をしていたか、どういう生き方をしていたか、なぜその人がものを書くのか、ということを模索していく方法。もうひとつは、作品について、その題材が何を言わんとしているのかを考える方法。何が大事か、どのセンテンスが大事なのかを選んでいきます。選ぶときは、その言葉、ある一文、一行、二行が全体を集約しているかどうかではなく、そこにある重要なもの、一部分かもしれないけど最も大事なことは何だろうか、と考えていきます。

──それは作家の生涯を調べたり、テキストを解釈したりという文学的なアプローチとは異なるものですよね。
 『白痴』を上演したとき、言葉がなくても“何か”を強く感じたという観客が何人もいました。ドストエフスキーの原作を明快に理解して感じたということではなくて、むしろダンスとして、ダンスの身体がいろいろ変化する場に居合わせたことによって何かを感じた。物語を翻訳した意味として受け取ったのではなく、何かしらそこに存在したもの、蠢いたものから感じたものがあったんだと思います。ダンスから感じたことは、小説から感じたことと同質ではない。そこに文学を基にダンスをつくる面白さがあるのかなと思います。

──どのような面白さでしょうか?
 人間の見方には、瞬間として見る、生物学的に見る、社会的に見る、客観的あるいは主体的に見る、表現として見る、実録のように見るなどいろいろあると思います。僕が面白いと感じているのは、とても単純なんですけど“感情”を扱うということかもしれない。感情は動作によって表れるという約束事があるわけではないし、“嬉しい”という言葉によって感情が表されているかどうかもわからない。じゃあ感情とは一体何なのか。『白痴』のムイシュキン、あるいは『ゴドーを待ちながら』の中で現れる感情とは何なのか。「頭にきた!」というのだけが感情ではなくて、もっと複雑で、もっと例えようのないことがある。感情というか、人間が生きるということに興味が湧いてきたんです。
 そして、人間は死につつあるということにも興味が湧いてきた。人間は死を恐れていて、僕自身もいつも何かを怖がっていて、“どうして”“なぜだろう”とわからないことを考えてしまう。いくら考えても、答えにならないようにしか答えられない。“どうして”を明快に答えられないところに、きっと感情はあるのでしょうね。人間の感情は、もっとスーッと細かい。それはダンスをやるからわかるのですが、ダンスをやる身体によって感じる感情があって、そこに興味があります。
 こういう話をしていると、つい佐東利穂子のことを思うんです。佐東はこの辺のことをまた細かくスライスするんです。

──佐東利穂子さんは、勅使川原さんの作品には欠かせないダンサーです。2005年にローマで初演された『Scream and Whisper』で雑誌『ballet 2000』の年間最優秀ダンサー賞を、2012年には第40回レオニード・マシーン賞を受賞するなど、国際的にも高く評価されています。
 佐東は“動く”というより“何もない”存在。今も多分、何もなくていいと本人は思っているんじゃないでしょうか。でも、その何もないような軽さというか、細さ。電球のフィラメントが明滅するみたいな細さが発火するとき、熱を帯びるとき、そしてある調和ができたときに、とてつもない動きになってくる。だから佐東は、感情も過度に表さない。その余分なものがない何も無さが、言葉とか音楽をより豊かに感じる力になっているんだと思います。
 僕にとって身体とは、それ自体には意味がないけど、使うことによって意味が出てくるもの。音符も、ひとつひとつに意味はないけれど、それによっていろいろな感情や曲が生まれる。言葉も、“あ”“い”という発音には意味がない。アルファベットも道具もそうです。しかし、身体を使うと言ってもそれによって意味を伝達することが目的ではない。なぜかというと、感情というか、“何か”は意味を説明するためにあるのではないからです。

──感情というか、何かを表現するときに、身体だけではなく、勅使川原さんは自ら舞台美術、照明、音楽などもデザインされています。創作進行はどうされているのですか。
 僕の頭の中に照明担当、音楽担当など最大10人ぐらい人(プランナー)がいて、いつも喧々囂々やっています。みんな意見が合わなくて仲が悪い(笑)、というか馴れ合っていない関係。強く主張するヤツがいると、じゃあそれでとやり始める。中でも照明をつくる時間はとても大事なんですが、考えて考えて決めるのではなくて、舞台をボーッと見ていると何が必要か見えてくる。「あ、これだ」って思うものが、何かに気付かされるように出て来る。アパラタスではいつもダンサーの鰐川枝里がオペレーションをしているので、彼女に指示を出して、それを意地悪な目とかいろんな目で見ながら、良いかどうか検証するんです。照明が決まると、登場人物の内面と外側が一体になって、説明が要らなくなるんです。
 不思議なんですが、始まって集中すると後に戻ることがない。わからないから明日にしようということがない。だから、仕事は早い(笑)。それが頭の中に10人いる良いところで、同時進行でいろんなことが決まり、僕が最初から最後までつくって、それから佐東やスタッフと話をします。

──いろいろなアイデアはどこからくるのですか。
 ドラえもんのポケットから(笑)…いや本当に、空っぽの舞台を見ていると具体的に「こうでなければならない」というものが見えてくる。別に神秘的なことを言っているのではなくて、いろんな条件が自分の中で揺り動かされると、自然に落ちるところに落ちるというか、行くべきところに行く。『Luminous』以前は、組み合わせるようにつくっていたので、“ゲーム”という言葉を使っていましたが、今はもっと複雑なものがスッと嵌まる感じです。例えば、動きでいうと、『白痴』では、ムイシュキンが下手の奥で斜めを向き、中腰で座っているところから始まり、首をゆっくり左に向けることで初めて観客が顔を見る……と自然に決まる。でもそれは収めようとしているのではなく、むしろブレさせることで見えてくるもので、自分でも不思議な感じがします。
 昔はちょっと格好つけて、シュールレアリスムの自動筆記みたいなものを考えていました。ある種の自然主義に近いもので、スタートしたらそのままで良いとか‥‥。今は、身体も考え方も、僕は形のない空っぽでありたいと思っています。でも、硬い空っぽじゃなくて、柔軟な、形がどのようにでも変わる空っぽ。だから、ある条件があれば、それに合った形という動きが出てくるんです。

──言葉を題材に作品をつくるようになったことで、他の作品づくりに変化はありましたか。
 身体のあり方がより広がったというか、もっと綿密に、細かく様々なことを感じられるようになったと思います。僕としては、文学を基にした作品と、例えば音楽だけの作品をそれほど分けて考えているわけではないのですが、抽象的な作品に戻って来ると、踊るときの身体の使い方がより面白くなったというか、豊かに感じられるようになりました。身体は言葉と違う次元で喋るんだけど、それがフレキシブルになったというか、幅広くなりました。


音楽からの刺激

──勅使川原さんというとノイズ系の音楽のイメージが強かったのですが、『Absolute Zero』(1998)や『Luminous』(2001)ではモーツァルトが流れて驚いた記憶があります。近年では、クラシック音楽の演奏家とコラボレーションされるようになり、2009年にはチェリストのタチアナ・ヴァシリエヴァさんの演奏によるバッハの「無伴奏チェロ組曲」でソロを踊られました。
 それ以前も、海外では、例えばギヤ・カンチェリというグルジア出身の強烈な作曲家の音楽でオーケストラと踊ったことなどがありますが、日本ではその2009年が最初です。クラシックは子どもの頃から聴いていて、元々好きでした。音楽は、ジャズもロックも好きです。僕が最初に買ったレコードは、小学生のときに買ったローリング・ストーンズの『黒くぬれ』『19回目の神経衰弱』(笑)。2014年には『踊るうた』という公演をやって、坂本九の「上を向いて歩こう」とか、「ずいずいずっころばし」とか、童謡や都々逸まで色々な音楽を使って踊りました。あ、平山みきも好きなんです(笑)。モーツァルトでもバッハでもベートーヴェンでも、ジャズ、ポップス、ロック、ノイズ系もムスリム系も、タンゴにマンボにハワイアン、都々逸、とにかく音楽は何でも好きです。

──以前お話ししたとき、ジャンルは関係なく質感で選ぶとおっしゃっていました。
 そうですね。音楽の中に質感を感じるし、動きの中にも質感があるし、という意味のことを話したんだと思います。そういう方法論として、スタイルとして持ちたいのではなく、厳密に選んでいます。例えば、アフリカのリズムでもハワイアン、タンゴ、マンボでも、歌謡曲でも演歌でも、もっと言えば音楽がなくても、音楽を感じていなければ踊れないでしょう。そういう意味では音楽に左右されないというか、束縛されない。

──『静か』は、音楽を全く使わない無音の中での勅使川原さんと佐東さんのデュオでした。私は視覚と聴覚が一緒になるだけでなく、プロプリオセプション、体内の深部感覚まで一緒になっていくような、感覚が微分されて混交していくような感覚を味わいました。
 ああ、微分にも興味があります。微分は数学用語ですが、微分するという感覚が僕らのどこかにあるんですね。数字はある種の目盛りのようなものではあるけど、そもそも存在しているようで存在してなくて‥‥。それから、速度感という感性の中に、微分する感覚がある。動きの速度感なんて時速○キロなんて数値化はできないけど、確かに違いがあって、僕らにとってその速度感はとても大事なんです。言い換えると、質感と言ってもいいようなボリューム感です
 今言われたみたいに、音楽を使うとエフェクトのようになって邪魔されてしまうけど、無音の中に身体を置いたときに鮮明になってくる感覚が確かにある。例えば、足の裏が床に着いて離れるところまでは、とても遠いんです。言葉にすると奇妙ですが、重さと速度と移動の推移というのか、10メートルぐらいに感じます。『静か』は、そういう足の裏が行っていたことが表に見えるパフォーマンスであり、足の裏が感じていた、巨大に広がった地平があったということでもある。電車に乗って身体が揺られるのと同じで、足の裏が全身に影響する。これは、音楽やカチカチっと鳴っている時間の刻み方では出てこないものです。

──勅使川原さんも佐東さんも、どれほど激しく踊っていても足音がしません。
 ええ、これは歩くというよりは“運ぶ”というか、キャタピラみたいに足を使う。お能の摺り足をちゃんと学んだことはありませんが、足の裏で重心を如何に移動させるかを考えています。ムーンウォークではないけど、重心を使い分けている。僕らはどこかで、イチ、ニ、イチ、二って歩くと教わっちゃったけど、そうではなくて、右足、左足の重心移動をつなぎ目がないようにオーバーラップして、踵からちゃんと歩けば、みんなもっと美しく歩ける──というのが、僕がオープンワークショップをやるとき最初に言うことです。やっぱり踵が大切。踵って丸いんですよ。だから、踵を着くときはボールが転がるのと同じように円周の一部分を着けば、柔らかい動きができるはず。それで、膝に力が入ってなくて、足首が自然に返せるんだったら美しく歩けます。

──そのように足の裏を使うと、上の身体はどのように動くのでしょうか。
 そのとき身体は、足の裏から上がってきた生命を受け取って“流れ”になる。まさに生命というか、命の感覚になる。例えば煙は、空気の動きによって動かされるでしょう。身体も、ある意味では自動的に、導かれるように動かされるような感覚になる。それが複雑に入り組んで、動きが生まれてくる。これは大事なことで、それを伝えるために、ワークショップでは、時間をかけて音楽を使わずに呼吸だけで動くことをやっています。

──以前、大学生や小学生にワークショップをしているところを拝見しましたが、延々と飛び続け、手首を振り続けて、余分な癖が無くなったところから動き出すというものでした。
 みんなそこからはじめます。パリ・オペラ座バレエ団でもNDTでも。90年代にはフランクフルト・バレエ団で合計3カ月ぐらいそういう僕のメソッドでワークショップをやりました。それでフランクフルト・バレエ団は随分変わったと思います。ワークショップをやって、それから振付、作品づくりに入ります。
 実は今日も、今度のオペラ『魔笛』に出演するバレエダンサーとやってきたところです。彼らにはクラシックバレエの軸(十字のフォーメーション)があるので、見様見真似で僕の動きやろうとしてもできない。僕には自分の中に軸があって、それは自然にやるからできるものなんです。自然というのは、例えば“振る”とか、単純な動き。そこから発展すれば、必ずできる。なので、ワークショップでは、とにかく力を抜くことをやっています。力を抜いて、身体を振って動かすというセオリーをちゃんと覚えれば、自然に動けるようになっていく、ということをずっと続けています。

──バレエダンサーに力を抜かせるのは難しくはないですか?
 普段お風呂に入るときとか酔っ払ったとき、ダラーンとなるでしょ。それをやればいいだけなのに、自分を出すのが怖い。鎧を脱がなきゃいけないから。つまりフォーメーションがないと動けないんですよね。その癖がなくなってその後に残るのは何? それがあなたでしょ? あなたってことは何? ということからスタートしたら、意外にきちんとした踊りができるようになります。それはクラシックバレエもコンテンポラリーダンスも関係ない。形式がないと言われるコンテンポラリーダンスでも、形になってしまうものはつまらない。“何”からスタートするということは、空っぽになれるか、何が本当にそこで言えるのか、ということだと思います。
 技術から一度、離れられるかどうか。そうしたら、その人は言葉がパッと出てこないかもしれないし、言い過ぎちゃうかもしれない。それでも良いじゃない、っていうぐらい下手くそになれる時間、場所が表現者には必要だと思います。


オペラへの挑戦

──近年は、オペラの振付、演出の依頼も増えています。ダンサーだけでなく、歌手も動かさなければならない。
 最初にオペラをやったのは、1999年に日本で演出した『トゥーランドット』です。ヨーロッパでは、2010年にパーセル作曲『ダイドとエアネス』をイタリアのフェニーチェ劇場で演出し、翌年、エクサンプロバンスではヘンデル作曲『エイシスとガラテア』をやりました。そういう時は常に演出、振付、照明、美術、衣装まで手がけますが、藤倉大さんの作曲で、ポーランドの作家スタニスワフ・レム原作の『ソラリス』をパリのシャンゼリゼ劇場で初演したときは、台本も書きました。その時は、歌手の動きをかなり限定しました。僕は歌手が演技するのが嫌いなんです。歌うことで充分だから、感情を歌で表現してください、と。その替わりダンスはメインの3人を、元パリ・オペラ座バレエのニコラ・ル・リッシュ、元NDTのバスラフ・クニェス、佐東利穂子が踊りました。少人数のオペラですが、文楽の義太夫と人形のように、1つの役を歌手とダンサーでつくるという面白い試みでした。

──今年は9月に、モーツァルトの『魔笛』をあいちトリエンナーレ2016で初演し、横浜でも上演します。バレエダンサーが出演するとのことですが、どのような構想ですか。
 僕が演出、振付、装置、照明、衣装、メイクなど全部担当します。指揮も振れたらもっと簡単なんですけど(笑)。ウソ。佐東は出演して、ナレーションも担当します。『魔笛』は芝居の場面が多いのですが、ドイツ語で歌っていたのに、急に日本語で芝居を始めたら妙チキリンですよね。だから、芝居の場面はカットし、その代わり日本語のナレーションを入れます。歌手には専念してもらい、東京バレエ団のダンサー16人が踊ります。動く装置を使い、全体として有機的に動くような空間をつくりたいと思っています。

──ダンサーはコロスのような役割ですか?
 いや、空気や質感、あるいは音楽、その人の精神、と言っていいかもしれない。つまり、目には見えないがそこにあるもの。舞台には大きな銀色のメタリックなリングがいっぱいあって、回転したり浮かんだり。1人の歌手に対して3人が踊るかもしれないし‥‥。そういう自在なものになると思います。その方がよほどモーツァルトの音楽に近い。日本人がエジプトの真似をした城壁を木でトントンつくって、ペンキを塗ったみたいなものを見てもしょうがない。芸術の面白いところは、抽象的なものがどれだけできるか。僕はそこに一番興味があります。

──今までになく抽象的な『魔笛』になりそうですね。
 抽象化にはある種の具象性というか、現実性、現実感が伴っているべきだと思います。そうでなければ“抽象”ではなく“架空”になってしまうから。では現実とは何かと言ったら、動くこと。動く抽象性とは、LIFE、生命です。僕は命をシンボル、象徴に収めたくない。現実の流れ、つまり揺れ動く血管性、揺れ動く実在として見たい。どんなに歳をとっても、その人の身体、生命体は新しい。老人も皮膚の細胞は新しく生まれ変わっているわけですから。それが、生きているということだと思います。

──オペラを楽しみにしています。長時間のインタビュー、本当にありがとうございました。
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